自慢じゃないが小さい頃から身体だけは丈夫で,病気らしい病気など実はほとんどしたことがない。例えば,タチの悪い風邪が流行って院内の連中が次々倒れるようなことがあってもオレだけは大抵平気でピンピンしているし,いつだったか旅先で怪しげな酒場に繰り出したときも,同行した連中は皆食中毒でやられたというのにオレはひとりでケロッとしていた。兄などはそれを指して人間の造りが粗雑だからだと嫌味を言うが,冗談じゃない,造りが丁寧だからこそ病魔に対して隙がないのだ。だいいち,造りが粗雑なのは兄の方だろう。こちとら,毛母細胞の出来が粗雑な男なんぞにそんなことを言われる筋合いはない。
……とはいえ,こんなオレでも何年かに1度くらいは風邪のひとつも引くことがある。で,普段病気をしない反動なのか,そういうときにはいつもひどく熱を出してそのまま1週間は寝込んでしまうのだ。どうやらオレは,滅多に病気に罹らない分,偶に熱など出すことにはてんで免疫がないらしい。何しろ,いつもなら酒に酔ったときでさえ怜悧明晰なこの頭脳が,熱に浮かされた途端に取り留めのない夢だか幻覚だかを取っ替え引っ替え見せ始める始末なのだ。そしてオレはそのマボロシに埋もれて,ヒィヒィ言いながらひたすらブッ倒れている。我ながらひどく不甲斐ない。が,こればかりは仕方がない。オレは基本的に諦めが良い方なので,自分のこの体質についても諦観の方向で納得している。
そうだ。納得…しているのだ。
とりあえず,一応,基本的には。
だが,納得したからと言ってこの朦朧とした状態がどうにかなるというものでもない。
ついでをいうと,昼の日中にベッドに居るというこの何とも言えないやるせなさが軽減される訳でもない。
ぼんやりと天井を眺めながら,オレは毛布を抱き寄せた。宿舎の中はひどく静かだった。それはそうだろう。確か今朝からオディロ院長が海向こうの町まで説法に出掛けている筈で,マルチェロ団長を始めとする騎士団員は全員が――こんなタイミングで風邪を引いてしまった間の悪い自分を除く全員が――院長の護衛として出払っている。残っているのは見習い僧のチビたちと,多分今頃はドニの酒場で喜捨に励んでいるだろう生臭修道僧の連中だけだ。おかげで唯でも辛気くさい修道院が一層どんより黴臭い。
ああオレも皆と一緒に説法旅行いきたかったなあ,と愚痴混じりの溜息を吐いた後,オレはもういちど瞼を閉じた。そうすると,眠気なんだか酩酊なんだか判然としないものが額の辺りに集まってきて,何もかもがどうでもいい気分になる。熱の所為で感じている不安だとか寂しさだとか,それから身体のあちこちの痛みだとか,そういったものも全てが霞んで,遠くへ沈んでゆく気がする。
オレがその幻覚を見たのは,確か,そんな折だった。
カツカツと聞き慣れた靴音がしたような気がして,オレは一瞬自分の耳を疑った。実を言うとその時点ではオレはまだ,自分がちゃんと目を覚ましているのだと思い込んでいたのだ。が,続いてギィと扉の開く音がして,居る筈もない男の声がオレの名前を呼んだとなると,これはどうやらいつの間にやら幻覚モードに入っていたらしいと判断せざるを得ない。
しかも,そいつさ。
信じらんないくらい優しい声でさ。
「具合はどうだ」なんて言いやがるんだぜ?
ホント,笑っちまうよな。
そんなの兄貴じゃねーって,絶対。
ともあれ,夢の中の兄貴はオレの枕元で小っこい木椅子に腰を下ろして,心配そうな目をしてオレのことを見下ろしてくれた。オレはというと,何かもうワケわかんない気分になっちまって,兄貴,兄貴ぃ,なんて情けない声出しながら毛布抱き締めて…気が付いたときにはボロボロ泣いてた。
兄貴はそれを見て呆れたような顔をして,まったくお前はとか何とか言いながら,片手だけグローブ外してその手をオレの右頬の辺りに置いてくれた。それがまたゴツゴツしてる割にほんのり冷やっこくてさ,気持ちいいの何のって。おかげさまで夢の中のオレは,ちょっとだけ,泣き止むことが出来た。
「…随分高いな」
ぽつりと零れた兄貴の言葉。熱の事を言われているのだと気付くまで,かなり時間がかかった。
「これは辛いだろう」
「……つらい」
オウム返しみたいに答えたら,止まってた筈の涙がまたぽろぽろ溢れてきた。頬に置かれた冷たい掌がそっとオレの目尻を拭う。オレは毛布に縋りついたまま,兄貴のその手に頬をすり寄せた。
きっと熱でアタマがとっちらかってた所為だと思う。そのときのオレは本当にどうしようもなく無防備で,そのうえどうしようもなく心細かった。辛いよ,と,もういちど兄貴に訴えて,オレは両目をぎゅうっと閉じた。
「辛い…辛い…よ…兄貴……ぃ」
「そうだな,辛いな」
普段とは別人みたいに穏やかな声で兄貴が言う。オレがこくんと頷くと,髪が流れて露わになった耳元を兄貴の指が何度も撫でる。
「つら…い……よぉ」
「ああ,そうだな,ククール…辛いな」
それが夢だってことくらい,オレにも流石に分かってた。でも,それでもオレは,そのとき,物凄く,シアワセだった。兄貴がこんなに優しい声でオレの名前を呼んでくれている。辛いだろうと慰めてくれている。こんなに優しい手でオレに触れてくれている。
兄貴がこんなに,傍に居る。
身体を起こせたならいっそ思い切り抱きついて兄貴の首筋に顔を埋めたかった。けれど,幸か不幸かオレにそんな元気はなくて,出来たことといえばぴーぴーべそをかいて髪だの背中だのを撫でてもらうことくらいだった。
まあ,それでも十分過ぎるだろうと,後になってオレは苦笑したけれど。
さて,しばらく泣かせて貰ったらオレはようやく何とか落ち着いた。バカみたいに抱き締めてた毛布を腕から離して身体に掛け直すこともできたし,兄貴の顔をちゃんと見上げる余裕もできた。そしたら兄貴はオレの顔を見てちょっとだけ笑って,「やっと泣き止んだか」なんて言いながら涙と鼻水を拭いてくれた。
「まったく…道々心配していた通りだな」
何が,と尋ね返そうとしたけれど,そのつもりで吸い込んだ息は咽の変な所に引っかかってしまって「えくっ」なんていう間抜けな声になっただけだった。兄貴がくすんと柔らかな苦笑を零す。
「ほんの子供の頃からお前は,偶に熱を出せば必ずこうだ」
そんなことを言いながら兄貴は,青いハンカチをオレの鼻のところに持ってくる。で,「ほら」なんて促されるまま,オレはそいつで洟をかませてもらった。ほんのり革とインクの匂いがして,それよりもっと兄貴の匂いがして。薬草か何かと一緒に持ち歩いていたのだろうか,縫い目の辺りに葉っぱの欠片がついている。そんな妙なところがやけにリアルな夢で,オレは自分の緻密な想像力というやつに正直少しだけ感心した。
と,そのとき。
「それで,お前…薬はきちんと服んでいるのだろうな?」
唐突にそんなことを訊かれて,オレはびくんと固まってしまった。兄貴の両眼が心なしか,いつものような険を帯びたような気がする。
「……ククール?」
呼ばれて咄嗟にオレは目を伏せたのだけれど,残念ながら折角逸らした視線さえ次の瞬間には無理矢理掴まえられてしまった。そのまま無言で返答を強要してくる兄貴。オレ,兄貴のコレは本気で苦手。頭の後ろの所に思い切りマヒャドでもぶち込まれてるような気分になる。もっとも,さしもの兄貴も今回は病人相手ってことで多少手加減してくれたようで,そのときの冷え具合はいいとこヒャダルコって感じだったけど。
ともあれ,オレは返答に窮していた。このまま黙っていたのでは兄貴は更に怒るだろうし,さりとてちゃんと答えれば,それはそれで拙そうだ。因みに嘘を吐くのは論外。バレたら確実に殺される。
「えっ…と」
迷いながら口を開くと,兄貴がチッと舌打ちをするのが聞こえた。
「服んでいないのか」
「……っ…」
「服んでいないのだな?」
「………………ん」
小声で答えて頭を垂れると,頭上から特大の溜息が降ってきた。上目遣いにちらりと見れば,兄貴は渋い顔して腕組みをして,苛立たしげに指を動かしている。
「きちんと服用するようにとあれほど何度も念を押したろう」
そう言って兄貴は眉間にいつもの皺を寄せた。気まずい空気が立ちこめる中,しばらく双方無言のままで見つめ合う。熱の所為などではなく息苦しい。
「…では団長命令だ,聖堂騎士団員ククール」
やけに芝居がかった調子でそう言って,兄貴はすうと両眼を細めた。何だか凄くイヤな予感がする。
で,悪い事にそのイヤな予感は,ど真ん中ストレートで的中した。
「今すぐ薬を服め,私の目の前でな」
「……ッ」
オレは絶句し,次いで必死で首を横に振った。薬は苦手だ。服みたくない。いや,苦手とか何とか以前に…アレはそもそも本当に人間が口に入れていい種類のアイテムなのか。あの風味といい舌触りといい後味といい,どう考えても真っ当な食物だとは思えない。アレを口にして本能的な危機感を覚えないヤツというのはオレに言わせれば相当鈍い。
…と強く主張したいのは山々なのだが,そんな話が兄貴に通じる保証もない。ので,オレはひたすら貝になる。
「どうした? 私の命令がきけんのか?」
口を噤んだままのオレを見て兄貴はそう畳みかけてくる。澄んだ緑の瞳が2つ,こちらを真っ直ぐ見下ろしている。
「団長命令を拒否するというのなら,相応の理由が必要だぞ?」
「………あ…その……さ」
しどろもどろになりながら,オレは何とか「理由」を探した。拙い。この状況はひたすら拙い。ここで兄貴を納得させられなかったら,あの苦い粉薬を大匙一杯服まなきゃならない。
ダメだ。それだけは何としても,回避しなくてはならない。
「…んん?」
兄貴が僅かに顎を上げ,続きを言えと目顔で促す。オレはこくんと生唾を飲み,どうかこれで納得してくださいと祈るような気持ちで唇を開いた。
「オレ別に,薬なんか服まなくたって,平気…だ…か…」
「ほう,先程まで辛い辛いと大泣きしていた奴の言いぐさとは思えんが」
「…っ」
言葉に詰まったオレの目を,兄貴はさも愉しそうに覗き込む。
「そのようなつまらん理由では命令拒否など認められんなあ」
では,なんて言いながら兄貴のヤツ,ベッドの脇に置いてある薬包をこれ見よがしに摘み上げた。うわああ,なんて悲鳴上げそうになるオレ。マジ,血の気退く。絶対コレって身体に悪い。
「い……いや,ちょっと,待って,まだ,他にもッ」
「理由があるのか? ならば言ってみるがいい」
兄貴が薬包を一旦置き直す。しばしの執行猶予というやつか。藁にも縋るような思いでオレは,必死で思考を巡らせる。
「ほ…ほら,風邪なんてさ,ちゃんと寝てればそれで治るって言う…じゃ…ねえ?」
「服めばより一層早く治るぞ」
間髪入れず返してくる兄貴。だが,オレも負けてはいられない。
「あ…焦ることない…と…思う。うん。人生長ぇんだし」
「だからと言っていつまでもぐずぐずしていられたのでは困るのだがな?」
「って言っても…さ…あ,オレが今この薬服んじゃったら,次もし誰か風邪ひいちゃったときに薬足りなくなってその方が困ったりしねえ?
それはちょっと,オレとしても,申し訳な…」
「安心しろ,薬の在庫は十分あるし,大体このような時期に風邪などひく莫迦はお前くらいのものだ」
「……実は今ハラいっぱいで」
「何も皿に山盛り服めと言っている訳ではない」
「じゃ…じゃあ,さ…宗教的な理由により薬物の摂取が禁忌となっているのですが……っての…は…?」
「それは異端尋問を受けたいという意思表示か」
「……」
「………」
「…………」
「………終いだな?」
いっそ冷たいくらいの口調で兄貴はそう言い放ち,口調とお揃いの冷たい眼差しを惜しみなくオレに注いでくれた。オレはがっくり肩を落として(と言ってもベッドに横になったままだから,見た目には分からなかっただろうけど)己の不遇と無力を呪った。兄貴が「はん」と嫌味たらしい溜息を吐く。
「だいたい…誰が出任せの言い訳を並べ立てろと言った。私は理由を述べろと言った筈だぞ?
それとも…」
そこまで言って兄貴のヤツは,さっきまで無表情だった顔中にニィッと底意地悪い笑みを浮かべた。
「流石のお前も,その歳になって「おくすり苦いからイヤです」とは言えんかったか?」
「……ッ!」
いきなり図星をさされたオレはこれでもかというくらい狼狽してしまった。それ見て兄貴が声を立てて笑う。オレはもう口惜しいやら恥ずかしいやらで,半分八つ当たりみたいな気分で兄貴のことを睨みつけた。
「なんで…分かんだよ!」
「分からいでか,私を誰だと思っている」
さらりと答えた兄貴は,まだ手袋を着けたままの方の手でオレの額をコツンと突いた。痛っ,と不貞腐れ気味に呟いて,オレは漸く思い出す。ああそうか,これは現実じゃない,夢だったっけ。だから兄貴がオレのことを何から何まで見透かしているのも不思議じゃないし,兄貴がこんな穏やかな目でオレを見つめてくれるのも不思議じゃない。
でも……夢ならせめて,もう少し,性格丸い兄貴だったら良かったのに。
「それにしても呆れるほどに進歩のない奴だな,お前は」
微妙にムカつく台詞を吐きながら兄貴は,ごそごそと何かを探し始めた。
「まったく…まさか本当に4年前と同じ小細工が必要になるとは思わなかったぞ」
「……4年前?」
聞き返すオレの言葉に「ふん」と鼻先だけで返事をくれて,兄貴は皮袋の中から小さなガラス瓶を取り出す。その瓶にぼんやり見覚えがあるようで,オレはちょっとだけ不思議な気分になった。兄貴が口元に苦笑のようなものを浮かべて呟く。
「まあ…だからこそ私も多忙を押してこうして来てやったのだがな」
兄貴が瓶の蓋を開けたのと,オレが「あ」と声を上げたのは,多分ほとんど同時だった。とろりとした濃密な香りがオレの嗅覚と唾液中枢をビンビンに刺激する。瓶の中に入っているのは,間違いない,上等の蜂蜜だ。
兄貴は何も言わないで,ベッド脇の薬包を手に取った。今度はオレも,抗わなかった。いや,抗わないどころか…むしろ期待満々で兄貴の手元を見つめていた。もしも尻尾があったならパタパタ振っていたかも知れない。兄貴はさっきの皮袋から小さな銀皿を取り出して,その中に例の粉薬をサラサラとあけた。
で,瓶の中身を景気よくとっぷりと注ぎかける。さすが夢,あの渋ちんの兄貴が嘘くさいまでの太っ腹だ。
「これだけ混ぜれば…お前でも何とか服めるだろう」
皿の中身を指二本でくちゃくちゃ掻き回しながら兄貴が言う。何故だかオレは,鳩尾の辺りがキュゥンと絞られるような変な気分になってくる。
兄貴がこちらをチラリと見やり,堕天使みたいな顔をして笑った。
「さあ,お薬の時間だぞ」
口を開けなさいと言われて,オレは素直に従った。兄貴は匙やなんかは使わずに,そのまま指で蜂蜜を掬った。
ぽたり,と粘っこい音を立て,兄貴の指先から雫が落ちる。間合いを計るみたいにもう一粒だけ滴らせてから,兄貴は指をすいと突き出す。
躊躇うことなく,オレはそいつを口に含んだ。
僅かに苦みの混じった蜜の味が,舌を伝って咽まで流れてくる。それを嚥下しながらオレは,まだ指に絡みついている分を舌と唇で丁寧に舐め取った。ぴちゃぴちゃと品のない音を立ててしまって,それで叱られてしまうのではないかと心配したけれど,兄貴はそんなこと一向に気にしていない風だった。
「……旨いか? ククール?」
オレが舐めやすいように何度か指の向きを変えてくれながら,兄貴はそう尋ねてきた。うん,と答えて頷くと,兄貴のヤツやたら満足そうな顔して笑って…それがさ,妙な話なんだけど蜂蜜なんかよりよっぽど甘い笑顔でさ,オレはますます変な気分になってしまった。
ほとんど甘味のしなくなった指が,何の前触れもなくちゅぷんと抜かれる。無意識の内に追い縋ろうとしたオレの唇を,兄貴の指がやんわりと制止する。上唇の真ん中に,オレの唾液でしっとり濡れた,兄貴の指先。これってヘンだ。絶対ヘンだ。そう頭のどこかで考えながらも,気持ちは確実に溺れてゆく。見上げれば,翡翠色をした双眸が穏やかな温もりを浮かべている。ツクンと胸を刺す痛み。思わず零した溜息がどうか兄貴に気付かれていませんようにと,オレは必死で天に祈った。
兄貴はさっきと同じ指にさっきと同じだけの蜂蜜を掬って,さっきと同じようにそれをオレの口の中に入れてくれた。そしてオレはさっきよりずっと一生懸命,兄貴の指に吸い付いた。使い込まれた指先は幾つも傷がついててざらざらしてて,だから物凄く,気持ち良かった。
兄貴はそうやって何度にも分けて薬入りの蜂蜜を舐めさせてくれて,オレはその度に兄貴の指を丁寧に丁寧に味わった。時折兄貴は指を折り曲げてオレの口蓋のあたりをくちゅくちゅと擽ってきて,そんなときオレはお返しにくすくす笑いながら兄貴の指を甘噛みした。薬を服ませてもらっているのだという自覚はほとんど無かった。オレはただ,自分が兄貴の指をしゃぶっているのだというそのことが心底嬉しくて幸せだった。最後にオレは兄貴の手首を掴んで,もうとっくに蜂蜜の味なんかしなくなっている指をぴちゃぴちゃしつこく舐め回した。
「こら,ククール,やめなさい」
兄貴はそんな風に言ったけれど,口調がゼンゼン本気じゃなかった。第一,本当にやめさせたいのなら,空いてる方の手で髪なんか撫でてくれてちゃ駄目だとオレは思う。
「……やだ」
爪の辺りを軽く噛んだまま,オレは答えた。兄貴は片目をすうと細めて,それからうなじをカリリと引っ掻いてきた。んっ,と声を上げ,オレは不覚にも指から前歯を離してしまったのだけれど,兄貴はそれを引き抜いたりはしなかった。
ちゅ,と音を立てて指を吸い直す。兄貴がふわりと微笑する。窓から差し込む光が兄貴の頬を柔らかく照らしていて,なんだかオレの周りでだけ時間が止まっているようで,へえ,兄貴ってこんな顔して笑うんだ,なんていうどうでもいいところでオレは少しだけドキドキした。
「…甘ったれが」
耳朶を擽る兄貴の声が無性に心地良い。オレはもう幸せすぎて照れくさくて堪らなくなって,わざと少しだけ力を入れて兄貴の指を噛み締めた。
それから随分長いこと,オレは兄貴の指を借りっ放しにしていた。兄貴はというと,その間中ずっと,オレの喉だの項だのを撫でてくれていた。
きっと,夢から覚めかけてきたのだと思う。そうしている内にオレは何だかぼうっとし始めて,気を抜くとホワイトアウトしてしまいそうな危うい状態になっていた。頭の芯のあたりがくらくらして,身体がやけに重いような,それでいてふわふわ浮いているような,不思議な気分に襲われる。オレは何とか意識を繋ぎ止めようと理性だの根性だのを総動員したけれど,それでも思考は何度も途切れ,視界は何度も暗転した。
兄貴がオレの頭を撫でながら,もう寝なさいと囁いた。オレは確か,嫌だと答えた。閉じかかった瞼を懸命に開いて,ようやく口から離した指に今度は両手で縋りつき,寝るのは嫌だと駄々をこねた。寝たら夢から覚めてしまう。兄貴がいなくなってしまう。それは絶対に嫌だった。
「…困った奴だな」
耳元から僅かに離れた場所で兄貴が言う。その声がまた絶妙な具合にあったかくて,オレはカクンと落ちかける。
「ならば――そうだな,何か物語でも聞かせてやろうか」
兄貴がそう言った所までなら辛うじて記憶に残っている。で,続いて髪を梳き始めた手がオレの意識を完膚無きまでに蕩かしてしまったことも覚えている。
だから,そこから先の事となると,どうにもあやふやで曖昧だ。ユールの日だとか後星の光だとかいうフレーズがあったから,兄貴が聞かせてくれたのはたぶん聖ボウアンが教会の地下で奇蹟を見る話だと思うのだけれど…何しろオレはユールの祝祭が始まるどころか一行が教会に辿り着く以前に混沌の海に沈んでしまったから,確かな事はひとつも言えない。
そういえば,霧散しかけた知覚の淵で,右頬に柔らかい何かが触れたような気がした。が,よく知っている筈のその感触が一体何だったのか,そのときのオレには全く判らなかった。尤も,判ったとしても決して信じはしなかっただろうと思う。だって,例え幻覚だろうと夢の中だろうと,兄貴がオレにキスなんてする訳がない。
目が覚めたときには当然,兄の姿などどこにも無かった。宿舎の中は相変わらずしんと静まり返っていて,聞き慣れた靴音などただのひとつも聞こえなかった。どこかでぴょうと,風の鳴る音がした。
あれだけ酷かった熱は,何故かあらかた下がっていた。ふと,さっきの夢の中で薬を服んだ所為だろうかと考えて,オレはひとりで声を上げて笑った。莫迦ばかしい,夢の中で薬を服んだからといって現実に熱が下がったりするものか。ユメはユメ,ウツツはウツツだ。
だけど――。
呟いてオレは,神妙な気分で天井を見上げた。もしかしたら,なんて,有り得ないことを少しだけ考えてみる。もしかしたら…もしかしたら,本当に。
「――なワケ無ぇか」
流石に突飛過ぎるだろう想像に我ながら半分呆れながら,オレは毛布を引き上げた。瞼を閉じれば眠気の続きがどこからともなく湧いてくる。あくびをひとつ零した後,オレは微睡みに身を委ねた。唇の端に蜂蜜の味が残っているような気がしたことは,敢えて無視した。
明後日の朝になれば,本物の兄が帰ってくる。
あのこっ恥ずかしい夢のことは,それまでに,忘れる。忘れるつもりだ。