罪のあとさき 後編

 マルチェロの思考は依然停止したままだった。脳裏では,周囲の景色がモザイク模様のように切れ切れに像を結んでいる。たとえばひやりと冷たい潮風。それから窓の外の波音。何かを言おうとして震える唇。硝子玉のように丸く見開かれた目の色は青。ああ,早鐘のように鳴り続けるこの鼓動はいったい誰のものだろう。視界の端にはゆらゆらとランプの灯りが燃えている。
 その中で尚,指先に触れるそれは先刻同様の硬さを保っていて…そのことが妙に忌々しかった。

「あ…いや……さ…」

 困惑気味の声を零したのは,いまだ戸口で棒立ちになっているククールだった。ククール…そうだ,此奴の名前はククールだ。ククール,私の,弟…。
 …弟?

「あのさ…咎めてるとか…じゃ…ないんだぜ? ただ…その……なんて言ったらいいのかな」

 砂のように掠れた声をして,ククールが続ける。

 息苦しい,とマルチェロは感じる。息苦しい。何故だろう。
 わたしは何をしているのだろう?

「ただ……まさか,さ? …まさか,あんたが,そんなこと…って…それが……なんか…意外…で…」

 弁解めいた口調でしどろもどろに喋るククールが言葉に詰まった丁度そのとき,マルチェロは唐突に全てを把握した。
 だらしのない格好で不浄の行為に耽っていた自分,今宵に限ってこんな時間に部屋に戻ってきた連れ,開け放たれた扉とそこに立つ銀髪の青年,そして,耳鳴りに似た雑音を伴って思い出される先程の問いかけ。

 兄貴,何してるの。

 蒼白だった顔面に血色が戻ってきたのは,羞恥のためだったのか,それとも,自分に対する怒りのためだったのか。どちらの所為かは分からないし,或いはその両方の理由が綯い交ぜになっていたのかも知れない。けれど,ともかく自分が弟の前で許し難い醜態を晒しているということだけは明白だった。
 どうする,と考えるより先に身体が動き,足元に脱ぎ捨てていた制服を掴み取って素肌を隠す。思考が未だ混乱していることには気付いていたが,冷静を取り戻すまで座して待っているつもりも無かった。
「兄貴ッ!?」
 ククールが叫んで駆け寄ってきた。そして,何をする,と諫める暇もなく,マルチェロの手首を取って握り締めた。咄嗟に感じたのは焦りと恐怖。だったが,そんなものは意識の奥底へと追いやって,マルチェロはククールを睨み付けた。
「放せ」
 怒気を孕んだ声を真っ直ぐ突き刺す。が,ククールに怯む様子はなかった。
 此方を見下ろしているのは,およそあの弟らしからぬ真摯な目だ。硬く透き通った青の色。雪を待つ冬の湖のような深い青。濡れた眼球に映った自分の顔が,やけに歪んで震えて見える。
 ああ。
 チクチクと胸に走るこの痛みは,いったい,何なのだろう?

「…やめんなよ」

 低い声で一言そう言って,ククールはマルチェロの目を覗き込んだ。その奥にあるものを確かめようとでもするように,束の間,瞳を揺らがせて。
 じわり。
 忘れかけていた熱がマルチェロの中に蘇り,苦い吐息となって肺腑を灼いた。

「何の…ことだ」
 辛うじて絞り出した声では,もう,戸惑いを隠しきれなかった。自分が取り返しの付かぬ一歩を踏み出そうとしている予感。後戻り出来ぬ場所に迷い込もうとしている予感。振り払おうとしても振り払えぬ何かがマルチェロの全身に絡みつき,ぞくり,と背骨を震わせた。
 ククールの両眼が僅かに細められ,針のような鋭い光を点す。
「とぼけんな」
 詰るでもなく,非難するでもない。穏やかな声音でそう言って,それからククールは…ゆっくりと視線を下ろし,マルチェロのその場所を凝っと見つめた。
「…それ」
 マルチェロは短く息を呑んだ。無論,先刻拾い上げた制服で肝心な場所は覆っていたから,それが弟の目の前に直接晒されている訳ではない。だが――その視線が捉えているのは,確かに,自分の「あれ」ではないか?

「どうすんだよ,それ?」

 ククールの問いかけも眼差しも,依然,危ういほどに真摯だった。馬鹿が,と 内心マルチェロは毒づいた。馬鹿が,今更どうしようもないではないか。幾ら今宵の私でも,貴様の目の前で「して」みせるほど堕ちてはいない。
 そうだ…そこまで堕ちてはいない。

 けれど。


「……なあ,兄貴」

 消え入りそうな声で呼び掛けてくる弟が,ちらと此方を見上げたとき――マルチェロはとうとう気付いてしまったのだ。ひたむきな情熱を宿したその青い眼が,もうずっと,自分と同種の欲望に濡れていたのだということに。

 一度は動き始めていた筈の思考が再び緩やかに麻痺してゆく。波音と潮香に浸されたこの異郷の夜になら,目の前の男と罪を分かち合うことも悪くないのではと思えてくる。
 何故だろう,身体が,熱い。

「…しないの?」
 問いかけてくるククールの声は,どことなく,甘えているようでもあった。窓越しに差し込む月光が,少年の柔らかさを残したその頬をゆらゆらと淡く照らしている。マルチェロは自嘲の溜息を喉奥で鳴らし,掠れ声でこう問い返した。
「お前は…どうしたい」

 その問いは,弟の問いかけに対するマルチェロなりの答えであった。
 それと察したのだろう,ひゅう,と細い音を立て,弟が息を呑んだのが分かった。

「どうした,ククール? お前は どうしたいのだ?」
「あ…にき…」
「答えなさい,…お前は,私のこれを,どうしたい」

 優しく囁くように言い,未だ自分の右手首をしっかり握り締めている弟の手を,ゆっくりと…その箇所へ導く。ククールの顔がくしゃりと歪んだ。兄の気紛れを素直に喜んでよいものか,それとも警戒するべきなのか,判断できないという風だった。
 迷うな,と,マルチェロは呟く。迷うな,ククール,そのようなことは――私にも疾うに分からなくなっているのだから。

「…した,い」

 いっそ苦しげな声で答えを零し,ククールはついと顔を伏せた。
「したいのか」
「……」
 念を押すように尋ねてやれば,俯いたままでこくりと頷く。先程までの勢いが嘘のように頼りなく震える細い首筋。
「私の代わりに,お前が…したいというのか?」
 問いを重ねたのは多分,自分の気持ちを整理する為でもあったのだろう。拒否の答えなど最初から想定しない,無意味な問い。うん,と小さく頷いた弟が,吐息とも譫言ともつかぬ声で尋ね返してくる。
「やらせて…くれ…る?」
 それもまた,無意味な問いだった。マルチェロは答えるかわりにゆるく微笑し,その部分を覆っていた布を床に落とした。
 これでもう,引き返せない。

 意識の奥で良心がキシキシと軋んでいるのが分かった。
 どこまで堕ちれば気が済むのだ,と,己を詰る声も聞こえた。

 けれど――そんなものは今はもう,どうでも良い。


 じくじくと疼き続ける熱。はやく触れて欲しいのだと強請り続けて脈を打つ熱。再燃した欲望は先刻よりも更に激しく募っていて,あっけないほど簡単にマルチェロの理性を籠絡する。
「……っ…兄貴…の,…おっきい」
 そう呟いてククールは,マルチェロのそこに指を触れた。おずおずとその形をなぞり,指先を滑らせる。
「それに,すっごい…硬い」
 称讃されて悪い気はしなかった。自分のそれが弟を夢中にさせているのだということが,誇らしいとさえ思えていた。

「気に入ったか」
 囁きかけてやればククールは,心底嬉しそうな顔をして「うん」と答える。
「でかいのってさ…大抵,ゼンゼン柔らかかったりしてさ,使えねー印象あったんだけど…兄貴の,違う」
「当然だ,私をそこいらの軟弱者どもと一緒にするな」

「でもさ,兄貴ったら…イケナイんだ」
 そう言ってククールは,くすくすと艶めかしい笑みを零した。そうしたときの表情はまるで娼婦のそれのようで,マルチェロはそこに眩暈に似たものを覚える。
「ここ,もう,こんなになっちゃってる…さっき,自分でしてたときの?」
「――煩い,お前には関係ない」
「嘘,関係あるって」
「黙れ」
「やだ,黙んない」
 囀るように言葉を続け,ククールはゆっくりと マルチェロのそれを撫で上げた。与えられた鈍い刺激に「くうっ」と小さく咽を鳴らせば,ククールの白い頬に愉悦の色がぽつりと差される。

「続き…してあげる」

 それだけ言うとククールは,マルチェロのそれを一心に弄り始めた。兄の意志を確かめようとでもいうように何度もその形をなぞり,かと思えば先端の僅かな裂け目を指先で掠め,時に柔らかく,時に大胆に,マルチェロの身体を責めたてる。
「…ッ……!」
 堪らず呻き声を上げれば,熱く濡れた青の双眸が此方を見上げてくすりと笑った。
「ここ,こうするの…ダメ?」
「あ…ああ…ッ」
「変な風になっちゃいそうで,怖い?」
「……っひ…」
「でもさ,大丈夫だよ,兄貴……オレに全部…任せて」

 慣れた手つきで捏ね回されて,そのたび爪先が痙攣した。押し殺した声が咽から漏れ,目尻に生理の涙が浮かんだ。
 刻一刻と近づいてくる最後の瞬間。硬く反り返ったそれは マルチェロの身体の一部でありながら既にマルチェロの意志を完全に拒み,ククールの手指だけを拠り所にしてふるふると小刻みに震えている。

 たっぷりと時間を掛けて愉しもうなどという考えは,互いに持っていなかった。マルチェロは終焉を希求していたし,ククールもそれを欲していた。真っ直ぐに兄を暴き立てる弟と,それを受け入れ更に先をと望む兄。傍目にもはっきりと限界の徴を見せ始めたそれに,ククールは容赦のない追撃を加えてくる。身を抉るほどの強烈な刺激。マルチェロの唇が苦悶の形に歪んだ。

「兄貴…もう……いくよ?」

 熱っぽい目を潤ませて,ククールが言った。マルチェロは上げかけた悲鳴を噛み殺し,精一杯の余裕をかき集めて首肯した。
「構わん…覚悟…は…できて…いる」

「本当に?」
「…ああ」
「途中でダメって言われても,オレ…もう…止まんないよ?」
「…ッ……今更,後へは,退け…ぬ…だろう……が…!」

 本音を言えば,これ以上の刺激になど,到底耐えられるとは思えなかった。けれど,ここで止める訳にもいかない。こんな中途半端な状態では終われない。マルチェロはただ,解放されたかった。自分の中でいや増しに膨れあがるその感覚から,自分の中から思考を奪い,理性を奪い,今や言葉すら奪おうとしている暴虐なまでの酩酊から,解放されたかった。
 だからマルチェロは,肚を括った。

「来いククール! 手加減など要らん! ひと思いにやれッ!!」
「あぁっ…あに…き…」
「…ッ……ククール…っ…!」
「兄貴…そんじゃ……い く ぜ ――― っ!!」


 裂帛の気合いを込めて,ククールはその左手を動かした。
 一気に。
 激しく。

 思い切り。


 そして。

 訪れた鮮烈なフィナーレは,マルチェロの視界を真っ白に染め上げた――。







 ――港町ダイラスの外れにある小高い丘には,古びた宿屋が一軒建っている。

 町の喧騒を窓下に望むその一室でその時,聖堂騎士団長マルチェロは,先の戯れの余韻に全身を硬直させたまま涙目で天井を見つめていた。
 その横で無邪気にはしゃいでいるのは,彼の弟のククールである。

 ククールは,兄の身体から剥ぎ取った戦利品を高々と掲げ,満面に零れんばかりの笑みを浮かべて,こんなことをほざいて喜びまわっていた。ホント,めちゃめちゃ陽気に喜びまわっていた。
 兄と女神と潮風と,それから他にも思い付く限り世界の全てに,最高の感謝を捧げながら。


「わーい!やったぜー! 剥けたー! 剥けたー! でっかいカサブター!!」
<おしまい>

というワケで,「普段なら自然に剥がれるまで置いとく筈のカサブタを 今夜は何故か無理くり剥いてみたくなったマルチェロ兄さん」と,「兄貴が剥かないんだったらオレに剥かせて!そのカサブタ!なククールたん」でした。相当な大物だった所為か,流石に中の方はまだ半熟状態だった模様。結構痛かったみたいです。団長。
って,こんなしょーもないネタで前後編引っ張ってスマヌー。
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