港町ダイラスの外れにある小高い丘には,古びた宿屋が一軒建っている。町の喧騒を窓下に望むその一室でその夜,聖堂騎士団長マルチェロは,ひとり
苦悩の溜息を吐いていた。
眉間には深い皺が寄せられ,唇は苦しげに歪められている。冷たい翡翠の双眸も今は困惑の色に揺らいでいる。きつく握り締められた両手。不規則に上下する肩。寝台に浅く腰掛けて項垂れたその姿には,昼間の彼の威厳など一片たりとも残ってはいない。
何故だ,とマルチェロは低く呟く。何故だ,何故だ,と繰り返しながら,自身を苛むその感情を何とか鎮めようと腐心する。
だが――それが今日に限っては一向に巧く行かなくて,だから彼は
無駄と知りつつ 堂々巡りの自問を繰り返すしかないのだ。何故だ,と。
昼間の祈祷の依頼主は貴族にしては珍しく「敬虔」な人物で,だからあの仕事そのものはそれなりに気楽なものだった。難点と言えば件の依頼主が自分の伴僧としてあの男を――弟と呼ぶのも腹立たしい,あの半人前以下の破戒僧を所望して下さったこと位だろうが,どうせ宿舎で顔を突き合わせているのも街道で肩を並べて歩くのも大した違いは無いのだし,そもそも自分と弟とが揃って祈祷先に出向く事など日常茶飯事であるのだから,そのことで自分が殊更何かを溜め込んでいたとも思えない。すべては順調で何の変哲もない,普段通りの一日が
過ぎて,暮れた。だから全く問題は無かった。問題が起きる筈もなかった。
なのに,何故――このような事になってしまったのだ。
幾度目になるやら分からない溜息を吐き,マルチェロは奥歯を噛み締めた。けれど,そうしたところで一度思い出してしまったこの欲求を棄てることなど到底できぬ。ああ,そうだ。認めよう。これは欲求だ。浅ましい,肉の欲求だ。それは彼の衣服の下で今も密やかに疼き続けて,ともすれば彼の理性さえをも侵食しようと企んでいる。
そうなのだ。その夜のマルチェロを苛んでいたもの。それは――
もう長い間忘れ去っていた筈の,あの,衝動だった。
誓って言うが,マルチェロは,常であればこのような下劣な欲望に屈服したりなどしない。この程度の欲望をねじ伏せることなど造作もないし,事実,これまでこの種のことは厳に自制してきた。直截的な言い方をするならば,普段のマルチェロは自分の身体にそのようなものがついているのだということすら殆ど意識しないでいるし,ましてや
それを使って快楽を追おうなど,唯の一度も考えた事はない。堅物と言われようとも石頭と言われようとも,それが神の剣を執る者として当然の節制なのだ。
だというのに。
今夜は何故か,考えるまい考えるまいとすればするほど,意識がその箇所に吸い寄せられてゆくのだ。じくじくと疼くその熱が甘美な誘惑となって,自分を内側から冒してゆくのだ。
その部屋にマルチェロはひとりきりだった。粗末ながらも清潔な寝台は二人分が用意されていたが,もう片方の使用者が夜通し帰ってこないだろうということはそれまでの経験上ほぼ確実だった。
がたついた玻璃窓の隙間から微かに潮風が吹き込んでくる。階下で土地の酔客どもが声高に笑い合っているのが聞こえる。月はまだ天頂に辿り着いてもいない。
夜の帳は,下りたばかりだ。
いけない,と,頭の隅で思いはした。
だが,最早どうすることもできなかった。
マルチェロは性急にグローブを脱ぎ捨て,一呼吸の間だけ躊躇し,それから意を決してその箇所に手を伸ばした。着衣の上からそろそろと指を這わせ,ゆっくりと輪郭をなぞってみると,曖昧で焦れったい布越しの触感が
抗い難い快感となってマルチェロの内を駆け上がる。戯れに爪を立てればその刺激は電流のように身体を貫き,指の腹をこすり付ければその場所に
じんと鈍い熱が生まれる。既に十二分なほど硬くなったそれは
来るべき確かな刺戟を待ち望み,衣服の下からマルチェロを待ちかね,誘い,惹き寄せる。
こくり,と唾を嚥下して,マルチェロは制服の留め具に手を掛けた。はやる心を宥めるように浅い呼吸を繰り返し,震える指先で釦を探る。喉元に響く鼓動が邪魔で,息をする事すら煩わしい。忌々しい。
「…ふ…ッ」
意識の奥には今でも警鐘が鳴り響いていた。どうかしている。私はどうかしている。このような不潔で非生産的な行為に溺れるなど,騎士としてあるまじき痴態。だが――
ばさり,と重い音を立て,青い制服が足元に落ちた。そのときに多分,マルチェロの中に燻っていた最後の自制心も,はらりと剥がれて落ちてしまった。露わになった素肌の上にゆらゆらと泳ぐ,淡い
月光。引き締まった肉体の僅かに奥まったその場所に,マルチェロの希求するそれは確かに在った。
「ああ…」
控えめな感嘆の声を零し,恍惚とした表情で自身のものを眺め下ろす。赤黒く張り詰めたその姿は思いの外グロテスクで,ゆえに一層,蠱惑的だった。
本能に誘われるまま掌を滑らせ,指先をそろりと這わせてみる。触れるか触れぬかの柔らかさで慎重に…そう,まだだ。まだ解放を与えてやる気は無いのだから。だが,たったそれだけの刺戟にもマルチェロのそこは狂おしいほどに疼き,終焉を願って身悶えた。微細な血管に穢れた血液が充満し,更なる刺激を強請ってじんじんと脈を打つ。身じろぎすれば薄い皮膚が引き攣れて,独特のあの痛みが走る。そして,それすらを心地良いと感じている自身に
マルチェロは,意識の底で僅かな嫌悪を感じている。
しかし――汗ばんだ右手は,それでも,そこをまさぐる事を止めようとはしない。
理性も感情も麻痺してしまった脳髄に,背徳の酩酊だけが染み渡る。
他の何物も求めない,今はただひたすらに,自身を追いつめてゆくことのみを切望する。
さわさわと首筋を撫でて吹き過ぎる夜風。薄い月光に照らされてしんと静まり返った室内。その中でマルチェロは黙々と,汚れたあの行為を続けていた。指先を動かすたびに肉を貫くのは,目の前の全てを塗り潰すほどに鮮やかな色。灼け付くような苛立ちに似た,膨れあがる焦燥に似た,確かな輪郭と質量を持った,熱。不規則に弾ける火花の向こうから一直線に,最後の瞬間が近づいてくる。
(あ…あぁ…ッ……も…う…)
堪えられぬ,とでも呻いてみると良かったのかも知れない。が,そのときのマルチェロにそのような余裕など有りはしなかった。押し殺した吐息を切れ切れに零しながら指先で先端を探り,いっそ荒々しいほどの勢いで急所を捕らえる。与えられた烈しい感覚を受けてきゅうと折り曲げられてゆく足指が,何故だろう,まるで他人事のようで白々と可笑しかった。
――今にして思えば。
どうしてああも無防備に「行為」に没頭してしまったのか,いや,そもそもどうしてあの場所であのような行為に及んでしまったのか。それがマルチェロは無念でならない。
あれが宿舎の自室などではなく宿屋の一室で,しかもああいった田舎町の宿屋の通例として戸に閂のひとつも付けられていなかったということくらい,先刻承知していた筈だったのだ。承知していたからこそ最初にあれだけ躊躇ったのだし,意を決してその行為を始めてからも
外の物音には極力注意を払っていたつもりだった。にも関わらず――むざむざと快楽の波に呑み込まれ,周囲の警戒を疎かにし,結果としてあのような醜態を晒すに至った。
そう,マルチェロは気付かなかったのだ。
あのとき,階下で宿泊客用の勝手口が開いてカランと土鈴が鳴らされたことにも,そのとき聞こえた「宿泊客」の声が聞き飽きたほど聞き慣れたものだったことにも,続いて板張りの階段がぎしぎしと軋んだ音にも,更には薄壁一枚隔てた向こうでカツカツと響いた靴音にさえ。
潮風に錆びた蝶番がギィィと鳴き声を上げたそのとき,マルチェロは,心臓が凍り付く思いというものを初めて現実に味わった。咄嗟に姿勢を正そうということすら思い付かず,自身のそれに手を掛けたままの格好で,首だけを回して戸口を凝視する。全身から血の気が退いてゆくのが判る。
果たしてそこには,母親譲りの銀髪を月光に泳がせたあの青年が
当のマルチェロ以上に当惑した様子で立ちつくしていた。
「あに…き…?」
零された言葉が何を意味するのかすら,そのときのマルチェロには分からなかった。だが,彼が何を見てしまったのか,自分が何を見られてしまったのか,それだけは分かりすぎるほど分かっていた。
こめかみから冷たい汗が一筋,流れ落ちる。
絡み合う視線が造り出す,重い,沈黙。
それをかき分けるようにして,銀髪の青年は もういちど
此方に向かって呼び掛けてきた。
「兄貴……何…してん…の?」